本校は1942(昭和17)年という激動の時代に出発しました。
図書館の学校関係資料で一番古い『動静章の耀き』(1946)を見ると、当時の建学の精神は「1 世界平和と国際協調に基づく道義の昂揚」「2 個性の伸張、独創力の啓培による科学教育」「3 実行力と責任感を涵養する行学一体の徹底」でした。
創設者・石野瑛(いしのあきら)先生は1889(明治22)年生まれ、福井県出身。大日本帝国憲法公布の年です。15歳で岐阜県の郵便局に就職しますが、教員を目指し翌年、教員検定試験に合格。その後、一家で横浜に転住。1905(明治38)年、三浦の葉山小学校から教員のキャリアをスタートさせます。
17歳で小学校の先生になった石野先生は、2年弱の小学校勤務の後、やはりきちんと学ばねばと考え、当時鎌倉にあった神奈川県尋常師範学校へ入学。4年間の学業の後、横浜小学校の先生となりました。その後沖縄に招かれ、那覇天妃尋常高等学校の校長として赴任します。先生25歳の時でした。
校長職と同時に石野先生は郷土史家として、着任半年後に『琉球大観』、その後『南島の自然と人』を出版します。先生が勤めた那覇天妃小学校入口の石門は戦禍にも負けず現存し「上天妃宮跡の石門」として保存されています。本校の高校生たちが修学旅行で沖縄に行く時は、この小学校をコースに入れることもあります。
さて、沖縄時代、校長職と本の執筆で忙しいその間に、ご両親の幼稚園設立にも関わっています。保育士をしていたお母さんが幼稚園を作りたいとのことで、横浜に帰った際に書類作成を手伝ったりしたそうです。その幼稚園が横浜金港幼稚園、現在学校の前にある幼稚園です。
3年間の沖縄での小学校長の後、石野先生は28歳で早稲田大学文学部史学科に入学。当時弟の隆氏と博氏は今の東京芸大で音楽と美術を学んでいました。学費捻出のため、3人でご両親の横浜金港幼稚園を利用し夜間の実業補習校を立ち上げ、昼は大学生、夜は夜学の先生となりました。さらに1920(大正9)年には「捜真女学校」第2代校長のクララ·A·カンヴァース先生を訪問し、講師としての採用をお願いします。こうして石野先生は大学生・捜真女学校教諭・実業学校の教諭と3足のわらじをはくことになるのです。
石野先生が郷土史研究を始めたのは20歳の頃。特に力を注いだのが吉田新田です。その研究成果は『旧吉田新田の今昔 吉田家伝来の古図を解説して』などにまとめられました。石野先生の研究は本、雑誌、講演など様々形となり、特に本は『武相叢書』として昭和になり発刊されます。
早稲田大学在学中、石野先生は友人たちと早稲田大学横浜会(現在の早稲田大学稲門会)を立ち上げています。「学生間の親睦と横浜の文化的向上」を目的とし、1921(大正10)年10月に創設(1939(昭和14)年から石野先生は3代目会長を務めます)。1922(大正11)年には「横浜文化協会」を設け、小学校の先生たちの教育講習会を行います。同年、考古研究誌『武相研究』を刊行します。この時「武相考古会」が設立されるのです。こうして、大学生と教師をしながら史跡の発掘・調査・執筆…といくら時間があっても足りない生活を送り、ついに1923(大正12)年春、石野先生は早稲田大学の卒業証書を手にしたのでした。
卒業後もそのまま捜真女学校で教師を続けていた先生を、9月1日関東大震災が襲うのです。幸いなことに石野先生もご両親御兄弟も無事。金港幼稚園も園舎は残りましたが、再開は翌年になります。捜真女学校に、被災した関東学院が間借りしてきたため、そちらでも歴史を教えたり…という生活となりました。
1925(大正14)年、石野先生は東京の中学校で1年教えたのち、1926(大正15)年から神奈川県立横浜第二中学校(現在の横浜翠嵐高校)の先生になります。きっかけは石野先生の歴史の講演を聞いた当時の校長から、ぜひと懇望されたからです。
石野先生は、県から『県民読本』編纂や「史蹟名勝天然記念物調査会」委員、講演の依頼など、歴史学者としての働きを求められました。忙しくなった先生は「禿は広がり白髪はふえ」、横浜第二中の生徒からのニックネームが「林間おぼろ月」→「ドーナツ」→「武蔵野の月」と変わったと書いています。
1940(昭和15)年、石野先生は教育功労者として表彰を受けます。小学校訓導から校長、幼稚園教育への関心、実業補習学校の設立、中学校・女学校教諭、青年学校視学、教科書編纂と活躍されていたことが認められてのことでしょう。そんな時に石野先生に新しい波がきます。県から当時勤務していた横浜二中をやめて、県史編纂に携わるよう言われるのです。歴史は大好きだけど、それより「教壇からおろされるのは死ぬほど苦しい。青少年と離れるのは堪えられぬ」と先生は嘆きます。「県史編纂の仕事は毎夜深更まで努力してやりとげる。教壇から引きずりおろされることは我慢できぬ」と、嘱託として教職を務めながら、県史編纂にかかります。ポジティブな先生は、このことを「天がそれらの人をかりて学園創設の機運に恵まれた」と記しています。
1942(昭和17)年春、いよいよ石野先生は学園創設の準備にかかります。その時53歳。前年、奥様を病気で亡くし、22歳の息子、11歳の娘と母を抱える家庭環境でした。太平洋戦争がはじまり、日本軍が東南アジア方面へ侵攻しているころでもありました。
石野先生が学園創設を考え始めたころは、大変中学校(現在の高校)が少なかったそうです。「狭き門」「試験地獄」から1年でも早く青少年を救いたい、と先生が考えるほどでした。そこで、中学校が1校もなかった港北区が候補地となります。
1942(昭和17)年2月、石野先生は同僚に「港北区に大きな建物はないだろうか」と相談します。元大綱小学校分校舎で、最近まで港北区役所として使っていた建物を教えられます。夕方、区長を訪ね雪混じりの泥道を建物まで案内されます。そのまま横浜市長半井氏へ直談判と市役所へ向かいます。市長に面会しますが、希望者が多いということ分かります。そこでこんどは地主に話を通しに行こうとします。真っ暗な雪道をへとへとになってたどり着いたのがもう9時前。施錠され灯りも消した家の戸を叩きます。出てきてくれたのは、なんと二中時代の教え子でした。
2月の寒い夜遅く、いきなり家の玄関をドンドンとたたく者がいる。何事と思って出てみると、そこにいたのは中学の担任。石野先生が事情を話すと、地主である父親は北京在住。教え子はよく理解してくれて、「師の恩の万一に酬ゆる時が来た」と長文の電報を北京に送るのでした。北京から、矢作乙五郎氏の承諾を得、近隣の地主10数名とも交渉し、なんと2月27日には建物払い下げの認可を得ます。武相中学校設置認可申請書を県に提出します。申請中のまま生徒募集を始め、4月2日には入学考査、700余名中、220名の合格者が決まります。
入学予定者を富士塚の校舎に集めたのは1942(昭和17)年4月18日のこと。その日の午後に「丸に星をつけた飛行機が校舎の真上を低空で飛んだ。」とあります。これは、太平洋戦争で初めて日本本土攻撃をしたドーリットル空襲です。たいへんな時代に学校は船出するのです。
何とか船出したと思った矢先、県から最終的な許可が下りなかったのです。理由は校地の狭さ。却下ではなく再考を要す、ということとなりました。これが5月18日のこと。それから「夜は地図を案じ、昼は馳駆(ちく)奔走し」土地探しです。そして見つけたのが松風台、現在の場所「武相台」です。
武相台は、村の萱場で「茫々(ぼうぼう)たる萱野(かやの)の高原」でした。しかし石野先生の目には「前方には東京湾の波を望み 西方には大山、丹沢、足柄、箱根の山々が見える。武相の山野を一望する、この地こそ武相学園の名が天の意にかなったところ」と見えたのです。一面の萱を生徒も手伝って開墾、戦争中の資材不足も乗り越え、何とか翌年4月に工事を終え5/15に校舎竣工式を行います。県知事・市長その他多数の来賓臨場の華々しい式でした。
怒涛の勢いで申請書類を作り直します。そして校舎の設計図までつけて再提出したのが6月11日。再申請が認可されたのが「梅雨はからりと晴れ渡り日光まさに輝々たる時」の6月24日でした。本校の創立記念日が6月24日なのにはこうした歴史があるのです。
富士塚校舎に続き、武相台も校舎などが整ってきます。しかし戦況は厳しくなり、日本は米軍からの空襲を何度も受けます。昭和20年4月15日、とうとう富士塚校舎が焼け、石野先生の30年にわたる歴史研究資料が失われます。当時の文章から、石野先生の無念の想いが伝わってきます。
その後も空襲は続きますが、武相台校舎は戦火の中かろうじて残ります。石野先生の自宅は当時横浜駅の近くでしたが、こちらも焼けてしまいます。学校のそばになんとか小屋に近い家を建てました。そして終戦を迎えます。
8/15学校に50人弱の生徒が集まり、用務員室のラジオを外に出し玉音放送を聞きました。他校が休校の中、武相は8/18頃には授業を再開します。連合軍の進駐、軍国主義から民主主義へ大きく変わる中、水道・電気にも困り、食料も不足する事態は変わらず、昭和20年が終わろうとします。
昭和20年12月、今の校歌が作詞されます。学校ができたときからずっと気にかかっていたそうです。詞には弟・石野博先生が曲を付けました。校章も現在の「動静章」が考えられました。
昭和21年、第1期の卒業生を出し、校舎の増築、水道も完成します。そして、昭和9年から休止していた史蹟めぐり会の「武相文化協会」を復活させます。
武相は昭和17年創立なので「旧制中学校」として始まりました。当時は小学校が5年で、中学は12~16歳までの5年制でした。昭和22年3月に第2回卒業式を行います。そして昭和23年に今の6.3.3制になり、武相中学校は新制の中学校と高等学校になったのでした。
武相の名前の由来は、武蔵国・相模国の山野が一望に見渡せる恵まれた丘という意味から『武相』の校名が創立者の石野瑛先生により命名されました。